宿題を終えて台所に行くとお母さんが夕食の準備をしていた。
そこから漂う匂いから僕は今夜の夕食を推測する。
甘くて、とろけるような、でも香ばしいこの匂い。
これは、もしかして―
「おかあさん、今日はグラタン!?」
そういうと、お母さんは笑ってそうだよ、今日は大好きなマカロニのグラタンだよと言った。
「やったぁ! 今日はお父さんも早く帰ってくるからみんなで食べられるね!!」
お母さんは、いつも通り笑って答えた。
そうだね、みんなで食べられるねと―
「おいしいね、お母さん…」
そう拓人(たくと)が言った直後、ゴンとバスの窓に頭をぶつけた。
「いったぁー…、なんだ夢か…」
拓人は頭を擦りながら座席に座りなおす。
そうすると、最近ちょっとだけ身長が伸びた拓人はバスの前の窓まで見ることができた。
窓の外に広がるは一面の水田。 それからずっと遠くには壮大な山が続いている。
拓人が住む都会の高層マンションの周りの風景とは大違いだ。
あそこから見る都会の景色は空気が澱んでいて(テレビで見た中国よりは遥かにマシだが)おまけに目の前にはもうひとつ高層マンションが聳え立っていて、周りの景色がまるで見えない。
おまけにそこの住民ときたらベランダに平気で布団を干す。
気分が悪いったらありゃしない―これは、出て行った父が言ったものだ。
そう、出て行った父。
それを思い出すとバスの窓から覗いて少しだけ晴れた拓人の心はまた雲に覆われた。
もし、もっと具体的に言い表すならば『いまにも大雨が振り出しそうな大雲』である。
「拓人、もうすぐ降りるよ」
横に座っていた母が着かれきった顔に無理やり笑顔を載せて言った。 父のことまで考えておきながら母のことを少しも思い出さなかった自分を心中で罵りつつ、母に笑顔で
「うん」
といった。
母は半年ほど前、父と離婚した。
原因は、父による浮気。
父は真実を知って激し、理由を聞こうとする母に目もあわせず、殴ることさえせずにただ半ば開き直り気味に
「お前じゃ、俺って男には似合わねえんだよ」
と言っただけだった。
,あまりに思い上がった言葉。
母に、何が足りなかったというのか。
料理だって出来た。
揚げ物だって簡単に出来るし、いつも必ず手作りのご飯を出してくれた。
裁縫だって出来た。
親戚の女の子のお母さんに子供の浴衣がうまく作れなくて困っていると泣きつかれ、見事にそれを仕上げて見せた。
家事も、母親としても、人間としても―
完璧ではないにせよ、決して劣っていたわけではない。
それを、そんな母を、父はたった一言で斬り捨てた。
それから、一ヶ月もたたないうちに拓人の父は家から出て行き、母は拓人を「こんな大人には育てたくない」と引き取った。
父も、それにはなんら反応もしなかったらしい。
拓人と、母は、こうして捨てられた。
ここ数年、父は会社での目覚しい成績でかなりの昇進をしていたらしい。
それで、あんまり思い上がったもので、「母では足りない」と浮気に走ったのか。
なんにせよ、決して二人にとっては許されない行為である。
拓人は、離婚の原因を知らされることはなかったが、彼は母の表情から父がひどいことをしたというのは分かっていたので、それを訊くこともなかった。
「降りるよ」
「うん」
拓人と母は田舎のバス停に降り立った。
降ろしたバスはドアを閉めると、ものすごい土ぼこりを上げて走っていった。
せみの声がやけにうるさく感じるが、空は都会のそれとは全く違っていて、買ったばかりのウルトラマリーンも絵の具をぶちまけたかのように青かった。
「行くよ」
「うん」
さっき言ったこととほとんど変わらない言葉を交わしながら、二人は歩いていった。
目指すは、母の実家―
つまり、拓人のおばあちゃんの家。